East Berlin


東ドイツ。今は存在しない国。
冷戦時代の象徴的存在国家は現在西ドイツに併合され、ドイツ連邦共和国と呼ばれている。
私が海外に関心を持ったのは、このソ連によってつくられた社会主義国家、東ドイツであった。

たまたまテレビで見たドキュメンタリーでは、東ドイツの人々の生活や表情は暗いと否定的なもであった。
確かに秘密警察、検閲などある統制社会ではそうかも知れないが、何かがおかしい。
まだ社会を知らない私は単純な疑問心から、現実をこの目で確かめようと西ベルリンにたどり着いていた。

早朝に6月17日大通りをひたすら東に進み、東西分断の象徴であるブランデンブルグ門を目指した。
そこには確かに分厚いコンクリートの壁があった。落書きがされているので、少し緊張感に欠けたが、
これぞまさしく冷戦の象徴であることは感じた。



壁の歴史を簡単に説明しておくと、第二次大戦後の敗戦国の一つドイツは、アメリカ、イギリス、フランス、
ソ連の4つに管理されることになった。西側の戦後処理の方法を巡って対立したソ連は、ベルリン封鎖によって
対抗するが、西側諸国は1949年にドイツ連邦共和国(西ドイツ)を建設し、遅れることわずか、東半分を
占領したソ連は、ドイツ民主共和国(東ドイツ)を建設した。旧第三帝国首都ベルリンは東ドイツ領に位置するが、
首都であるがうえ、同じく上記4カ国に共同管理されていた。

資本主義国家の西ドイツに比べて統制が厳しく自由が少なくなっている、社会主義国家、東ベルリン市民は、
西ベルリンへの移住を求めるようになった。これにより国家復興に必要な労働力流出を恐れた国家は、
1961年夏の深夜に突然壁の建築を開始した。ここでこれまで行き来していた、西側と東側に離れて住んでいた、
家族、親戚、友人達が89年の崩壊まで離散されるといった悲劇が生じた。

分厚いコンクリートの立派な壁だが、最初は、鉄条網などからはじめ、隙を見つけて抜け出す人もいたほど。
徐々に写真のように頑丈なものにして行き、もはや簡単には乗り越えることが出来なくなった。



私の身長は170cmで、これから計算すると4mくらいで乗り越えられないこともないように思えるが、
監視塔があるし、東側には一つ、二つと別な壁が造られていて、さらに砂地など見晴らしの良い地帯が
設けられていて、この何重にも張り巡らされた防御をまともに超えることは死を意味した。

下の写真は奥が東ベルリン、一番手前下に少し見えるのが、本当のベルリンの壁であり、上の
私が立っているものである。



私が、ブレーメンから西ベルリン行きの列車にのり、ちょうど東ドイツの国境で停車したとき、
同じコンパートメントにいた老人が、一言East Germanyとため息をつき、悲しげな目つきで、
私に向かってつぶやいた。

すると他の乗客が私に、彼は東側に住む離散家族で、65歳(たしか男性はそうだった記憶がある)に
なると、西ドイツに住む家族に会いに行く事が出来る。一見ご褒美のようだが、これは貴重な労働力で
なくなること、移住を望めば、年金など面倒を見る必要がなり、国家の非常な都合によるものである。
このように私に語ってくれた。

そんな彼にも東側に家族がいるのか、仕方なしに戻っているようで、何か天国と地獄を見ているように
思えた。

ブランデンブルグ門から、壁博物館でを目指し、壁や亡命に成功した人たちの展示見た後、隣接する
チェックポイントチャーリーから、ついに一日ビザを購入し、東ベルリンへと足を踏み入れた。



社会主義国の特徴である、車の通行量の少ない立派な大通り、殺風景なコンクリート建築など、
壁一枚ですっかりと雰囲気が変わっていた。

しかし、アイスクリーム屋さんでみた嬉しそうな顔の女性、列に優先して入れてくれた女性軍人
など、人を観察していると西ベルリンより、人は素朴でやさしく感じた。

強制両替があり、最両替が難しかったこともあり、私はレストランに向かった。
高級そうだったが、金額的に余裕であったため、生まれて初めてきちんとしたレストランで昼食を取った。
何を食べたのかは覚えていないが、格式がありそうでゆっくりと美味しく食事をいただけたことだけは
今でも思い出す。

その後、私は街のヘソであるアレキサンダー広場にある、デパートを探索した。
(下の写真がそうです。)


中は何十年前にもタイムスリップしたようで、時代遅れでダサい服、これって何十年前の商品といった
物ばかりであった。CDはなくアナログレコードで、テレビなんかは白黒の癖に給料の一月分はあるのでは、
ないくらい非常に高価であった。

食事中は西と東のギャップを感じなかったのだが、このデパートですっかりカルチャーショックになって
しまった私は、外の空気を吸いに、広場にあるベンチに腰をかけて、次はどこへ行こうかと地図を見ていた。

すると地元の幼い子を連れた若夫婦のダンナが私に、"Can I help you?"と話しかけ来た。
ちょうど考え中でもあった私は、そっけなく"No, thank you"と答え、視線を再び地図に向けたが、
またしばらくして彼が話しかけてきたので、今度は少し話をした。彼の名前はMikeでエンジニアをしているとの
ことだった。エンジニアといっても国民誰もがそうであるように国家公務員である。

話が少し盛り上がったところで、彼は私にここではゆっくりと話が出来ないから、家に来ないかと提案してきた。
地元の人々の生活に関心があったので、私は快く承諾した。

彼も喜んでいるはずなのに、 私と決して並んで歩こうとはしない。よほど秘密警察の目を気にしているのだろうか。
実際に壁の近くを歩いていたときには、すぐにパスポートを見せれるようにしておけとも言われた。
パスポートチェックこそはなかったが、監視塔からしっかりと私の写真は撮られた。



(Mikeのアパートの居間)

Mikeアパートに到着し、中に入ると西側より少し質素かなと思う程度で、先ほど覗いたお店とはまったく異なっていた。
振舞ってくれたビ−ルも
さすが、ドイツだけあってまったく美味しい。デパ−トで試した、真っ赤な着色料モロの
イチゴジュ−スとは大違いだ。
 
私が一口ビ−ルを飲み終えると彼がこう言った。
「道中は冷たくしてすまなかった。分かっていたと思うけれど、秘密警察にどこで監視されているか分からないんだ。
僕も家族が
あるし。」
そして、西ベルリンの様子から始まり、西ドイツ、ヨ−ロッパ、日本について、まるで子供のように目を丸くしながら、
休む暇もなく、
私を質問攻めにした。とにかく、一日も早くここから出たいといった彼の強い思いが、伝わってくると
同時にあきらめの様子も試みた。
 
印象的だったのは、私が聞いていないにもかかわらず、「僕はロシア語をかなり理解できる。学校で強制的に学ばされたからだ。
しかしながら、この言葉は話すのはもちろん、聞くのも、
見るのもいやだ。」
とロシア語、ソ連に対して、すごい嫌悪感をもって私に話した。そして彼は続けた。
「僕の英語力はまだまだだが、こちらの言語は学ぶのが楽しいし、今後は英語が話せないといい仕事に就けなくなると思う。」
この表情の変わりようはいったい何なんだと思った。
 
いろいろ話し、そろそろ日も暮れるころ、私が帰るというと、「西ベルリンの写った写真は持っているか。」
私が、「絵葉書だったらあるけれど、写真は現像して送るよ。」
と返答すると、写真は検閲に引っかかるからだめだ。絵葉書を渡すと、無言で暫く眺めた後、私に質問を始めてきた。
そして、最後に頼むからこれらのはがきを
譲ってくれないかと頼まれた。
私は一瞬大げさなと思ったが、実際それらの所有は禁を犯すことであり、彼にとっては大変なことであることに気付いた。
 
絵葉書で大変喜んでいた彼は、私にまた会おうなといってくれた。
 実際彼の家は同年のクリスマスに訪れている。写真にクリスマスツリ−が飾られているのは、そのためだ。
 
余った東ドイツマルクを使い切るべき、再度デパ−トに戻り、色のドぎついショ−トケ−キを大量に買い、
西ベルリンへの
検問所、チェックポイント・チャ−リに向かった。
 
しっかり私の荷物検査が行われ、ケ−キの入った箱を女性係員が指差し、内容を答えると一言聞かれた。 
「なんで、こんなまずいケ−キをたくさん買ったのよ。西側の方がずっと美味しいでしょう。」
 確かに西側にはもっと美味しいものがあるけれど、このケ−キも先ほどつまんだ限りはそんなに悪くなかったと私が、
そう答えるとすごく不思議な顔をしていた。
 もちろんその夜、私の胃は思いっきりもたれたのは、いうまでも無かった。
 
西側はイルミネ−ションが、眩しかったが、人はどこか冷たくよそよそしい感じがして、東側で感じた素朴さ、
人の温かみを感じ取ることはできなかった。
 
Mikeと最後に会ったクリスマスの話しでも壁がまさか一年以内に崩壊するとは想像もつかなかった。 
壁の無い今、もう一度過去に私が通った後を歩き、歴史の流れをこの体で、感じてみたい。
 




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