lebanon1

6月29日

目が覚めるとトイレと部屋との往復が続いた。
昨日のスープにビールが追い討ちをかけたようだった。
「まずい、これからパルミラまでの4時間半のバス旅行に堪えないと行けない。」
そう思っていると、妻も様子がおかしい。昨日から体調が悪いとはいっていたが、
案の定私と同じ状態だった。」ダマスでもう一泊とも考えたが、結局先にベイルートへ行くことにした。
そこまではセルビで3時間くらいでいつでもトイレに行けるということもあった。

国境までは整った道を飛ばしあっというまで、信じられないくらいだった。
出国で続きも一分で終わり、これは3時間もきるなと一瞬喜んでしまった。砂漠地帯を5くらい
走ったところでようやくレバノン国境である。レバノン杉の国旗が心を和ませてくれるが、
イミグレーションの係員はぼってとしたおやじはおらず、きりっとした顔立ちをしていた。
その中でも我々のパスーポートをチェックしていた50過ぎの将校は、内戦を戦い抜いてきたという
匂いが感じ取れた。わずか2―3分のことであったがついにレバノンにやってという実感が湧いてきた。

予想とは裏腹に国境を出るとすぐに街があった。まるで南スペインの田舎を走っているような街並みであった。
そういえば「中東のスイス」と呼ばれていただけあって豊かさが見えるのも当然かと納得してしまった。
途中のドライブウェーで朝食のために車は停まる。レバノンは物価が高いとは聞いていたがジュースが、
一ドルもする。シリアの倍である。これはたまげたと菓子類とうをチェックするとトルコ製が多いが,
やはりどれも1ドルを超える。ドライブウェーということを考慮しても高すぎるのだ。
そんな姿が目に止まったのか運ちゃんがコーヒーをおごってくれるというのだが、体調の問題もあり丁寧に断る。

さあー、ベイルートも近いぞと思いつつも、レバノンに入ってからは道の悪い一般道をぐにゃぐにゃ走り
やたらと時間がかかった。検問所が何個所も目に付く。その中の一つに先ほどさよならをしたアサドと息子の
肖像画とシリア国旗の掲げている検問所もあった。一瞬ここはどこと目を疑ってしまった。一国の独立国に
他国の旗が掲げてあるのはその国の支配下にあるともとれ異様だ。それは1975年に始まった内乱を見れば
納得する。内乱鎮圧の名目でレバノンに介入したがそこでソ連軍の支持のもとさらに入り込んで力をつけていった。
それからイスラエルも入ってくるが最終的にはシリアが支配を確立しその力は現在に至るまで続いている。
それはシリアの「2つの国、1つの国家」という「大シリア」構想に現れている。

ベイルートに近づくにつれてオリーブ等のシリアでは見なかった緑と同時に内戦の傷痕を残した建物が
目立ってきた。海が見えてきたらベイルートの街もみえてきた。見たところかなり大きそうだ。
市内に入ると至る所で建築ラッシュであった。左手に国連の事務所が見えしばらく傷跡の少ない街中を走り,
3時間ちょっとで到着した。

平野君にコピーさせてもらった簡単な地図を便りに歩きはじめる。旧市街に興味があったが勝手の分からない
初日だと見つかりにくいらしく、また体調も悪いこともありとりあえず現在の街の中心であり、
中級ホテルの集まっている地区ハムラに向かう。ハムラ通りはメインストリートであったが思ったより寂しかった。

日曜日でもあったからだろうか。レバノンはイスラムよりもキリスト色の強い国である。だから日曜が静かだった。
中級ホテルといっても50ドルを出したところでは先進国で言うボロ宿で半分の値段の価値もない。
とりあえず今日だけとハムラで一番安いといわれている20ドルの宿に入ってみるが、古めかしいレセプションには
誰もいないし呼んでも来ないので他を探す。妻にもう1泊だけドミトリーで我慢してくれと頼み二人でも物価の高い
この国で10ドルもかからないというペンション
.バレリーを目指した。

途中までは通りの表示を見て簡単だったが気がつくとフランス語で
RUE6,ZONE...とわからなってしまった。
他の裏道もそうであった。何てややこしいと思ったがベイルートは更に複雑なことを後に身をもって知るのであった。
人に聞きながら歩いているとサンドイッチを注文していた日本人旅行者に挨拶された。後にルームメイトになる
伊藤さんであった。

Wash me書かれた看板と車が壁にぶら下がっているアメリカっぽいガレージが見つかった。
そのビルが目指す宿であった。話の通り看板はない。暗く廃虚のようなビルの奥に入っていくと看板があり階段を
上ってゆく。途中の売春宿を横目にみながら更に上がると、ペンションはあった。とにかく体調が優れない、
疲労が溜まっている、潮風を受けるベイルートの街は蒸し暑いこともあり、トイレとシャワーが汚すぎるという
妻の意見もあったが旧市街まで更に何キロも歩いて探す気力もなくなっていたから、そこに決めてしまった。

さあ、一休みだというまもなく妻の雷が落ちてしまった。やはり女性にとってはトイレ、シャワーが清潔かどうか
というのは思った異常に大問題なのである。かなり時間を要したがご機嫌を取り戻してもらい現代遺跡探索に出かける。
海を見ながら散歩するのが気持ち良いだろうと言うことで海岸沿いに歩くことにするが、まずはリゾートホテルが
邪魔で何も見えない。しかも歩道が工事中のため絶え間なくスピードを出して突進して来る車と同じ土俵を歩かないと
いけないので歩きにくい。

やっとビーチ沿いに歩けると思えばこれも工事中のため通行止め。
巨大な工事現場の中を何本かの道路が通っていてその中を歩いているようだ。日曜日のためダンプが走っていない分
まだマシだった。宿で伊藤さんに聞いたところによると、昨日土曜日に歩いたそうだがとにかくどこもかも内戦跡は
建設ラッシュでダンプがひっきりなしに来るし、パトロールしている軍人もここは入るなとかうるさかったとの事で
あったから今日なんかまだ良い方だろう。海岸沿いを歩くのを諦め遺跡の中を歩いて行く事にする。

本当に現代遺跡の名がぴったりで全くというほど音が聞こえて来ない。前方を10名ほどの軍人が歩いていくのが
見えたので彼らの姿がなくなるのを待ってから写真を撮った。見渡すと瓦礫の山のようなところもあったが、
弾丸が大量にぶち込まれ屋根がなく石造りの骨格だけが残った幽霊屋敷の方が市街戦の悲惨さをよく訴えていた。
本当にどれだけの人が家を失ったのだろうか、と想像するだけで気の毒になる。そこは同じベイルートでもハムラとは
別世界であった。中を探索しているとトタンを貼って造った小屋というにもみずぼらしいものがあり、中で火をたいて
いる人の姿があった。もう簡単な地図では全く役に立たない。翌日地図を手に入れて見てみたがやはり役に立たなかった。

角には小型戦車が隠れていたりで独特の緊張感が漂っていた。暑さとそんな雰囲気のため結構疲れていた。
そんな矢先、あるパトロール隊員の車が我々の前を停まったと思うと、「こんな所を歩いてどこへ行くんだ。
大変だろう、乗って行きなよ。」と言う。疲れで思考回路がいかれていたせいか、エトワール広場まで送ってもらう事に
したが結局分からずまた元のハムラに戻っていた。

彼が迷いまくってくれたおかげでかなりいろんな所を見れたので、7000年の歴史があるといわれている、
世界最古の都市の一つビブロスへ向かう。どう見ても近距離バスにしか見えなかったがビブロスに行くというので、
それに乗り込んだ。地中海に沿ってバスはひたすら北上する。スペインのコスダデルソルをバスで走っているときに
見た眺めに似ていると思ったのは、同じ地中海で街並みも西洋ぽいからであろうか。左手に海、右手に丘が見え、
しかもバスがゆくっりと進むのでじっくりと眺められる。ベイルート市内が日曜で静まり返っていたのに対して、
海岸沿いの道は海水浴に向かう家族連れでとても混雑していた。ふと時計を見るとすでに1時間が経っていた。

まだ街の雰囲気がないなと思っていたところにバスは何の変哲もない高速道路の脇に止まった。
言われたとおり坂を下りていくと寂れた街があった。途中の店でジュースを買い遺跡までの道を聞くと、
そこの子供が親切にも分かるところまで連れていってくれた。そこから遺跡までの細い一本道は商店街になっていた。
石造りの建物、石だだみが完璧なまでにきれいに整っている。ユダヤ地区を歩いているようだ。ただ残念だったのは、
ほとんどの店が閉まっていただけでなくショーウィンドー自体も木の扉で閉まっていて、外に掲げてある看板から
ここは何屋家を想像するしかなかった。短い通りを抜けると左手に遺跡への入り口があった。入場券売り場で値段を聞くと、
いくらにして欲しいと逆に聞かれた。。何だこれと不思議そうな顔をしていると、二人で10000ポンドと言う。
1ドルが1500ポンドだったから、シリアとかと比べると妥当だったが5000ポンドでどうだと聞くと、
こちらが損するけどいいやと言いながらチケットをくれた。後で人に聞くと一人4000ポンドだったとの事である。
後に他のところでも入場料を値切ろうとしたがそこだけであった。本当に不思議だ。

フェニキア人の国の商業の中心地ビブロス、その地名がバイブル(聖書)の語源になったのだから名前にも
重みが感じられる。またフェニキア人がアルファベットをつくった事でも有名であり、まさに西洋文明の源であると言える。

遺跡といっても中世の十字軍の要塞である。上まで登るとそこからは地中海とレバノン杉と言う典型的な風景が
広がっている。そこから見る神殿跡の柱や遺跡は海を借景にしているようでしばらく眺めていても飽きない眺めだ。

またこの遺跡内も含めて旧市街には花が多く歩いていてもほっとした。ところが一歩石畳の地区を出るとそこには、
一般言い抱かれている軍隊というレバノンのイメージがあった。軍人がかなりの人数で集まっていて、小型戦車の姿もみえた。
何かあったのか、それとも誰か要人でも来るのであろうか。聞きたかったが通行人の持ち物チェックもしていたので、
余計な災難に遭わないためにも、別の道を通る事にした。

帰りはセルビを使ったので速かったが、乗り換えたベイルート市内行きのマイクロバスの降りた場所が悪く、
宿まで30分以上歩く事になってしまった。西洋のブランド物のブティックや洒落たカフェが目に付いたので、
ハムラまではすぐだと思ったのが間違いであった。ハムラに着いたときは疲労のピークに達していた。

栄養補給にと果物を買おうとすると、キュウイ3つ、バナナ2本、オレンジ3つとミネラルウオーター1本で何と
ドルに換算すると4ドルという。結構時間をかけて計算をしていた事を考えると、計算能力がなかったのであろう。
金額の内訳を問いただすとバナナ2本で1ドルというからすごいいい加減である。内乱のせいで教育が欠けていた
ためであろうか、シリア、ヨルダンと比べると予想外にも、こういった事がちょくちょくあったし、外国語を話せる人も
それほど多くなかった。そのような傾向は特に若い人に多く見られた。ミネラルウオーターの値段だけが妥当だったので
それだけを買い、他の食料を宿の近くで調達した。

宿に着くと私の寝不足から来る疲労はピークに達していた。それより悪かったのは妻の体調である。
頭痛がして熱っぽいというので、9時前には床に就いた。その時は初めての一緒の旅行で妻を振り回したことに
とても責任を感じた。皮肉な事に今までの宿で最低だったにもかかわらず旅行中出は一番良く眠った。
またこの夜を境に毎日がいつものようによく眠れるようになった。




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