Russia 1
バロック調の部屋で聞こえてくる生演奏。
クラシックではない。しかもストリートミュージシャンっぽい二人の青年だけである。
目を閉じているとクラッシック音楽が最新の音楽であったヨーロッパの古き良き時代の
イマージュが浮かんでくるのはどうしてだろうか。周りにいる人々も観衆に見えてしまう。
そう、私はその時、駅の待合室に居たのだ。天井の絵までもきれいな待合室に。列車のアナウンスのため一瞬演奏が中断された。
シベリア鉄道の終着駅、ウラジオストク。だがそこに旅の終点といった匂いを感じなかった。
私が真っ先に思い浮かんだのは、ヨーロッパの果てにあるイスタンブール駅ではなくブラジル、
アマゾンのど真ん中にある都会マナオスだった。その街の中心には、どうしてこんなところに
というぐらい立派なオペラ座が鎮座していた。豊富な資源には魅力があっても、ヨーロッパから
きた者にとって住むのにはかなり苛酷な環境であった。
そんな彼らの遠く離れた母なる大地ヨーロッパへの想いがひしひしと感じ取られた。「東方を征服せよ」という意味の、ここウラジオストクにも、ヨーロッパへの想いという
同じものを感じた。と同時に日本から最も近いヨーロッパを発見した。この駅にはシベリア鉄道の終点記念碑があるというので、旅の始まりを目で感じてみたく、
階段をひたすら下りて、ホームに出た。濃い雪化粧をしたホームにはかなり冷たい夜風が漂っていた。
そんな寒さを感じながら歩いてゆくと、そこには”9288”と書かれた記念碑があった。
低い気温のためか、夜も遅いせいかそこを訪れる人の姿は見当たらない。
すぐ手前に飾ってあるSLを入れて、カメラのシャッターを押すのが精一杯であった。
ゆっくりと頭の先から足の指先まで、旅の始まりに浸ることなくすぐさまその場を後にした私は
、暖かそうなレストランでも見に行こうかとした。明治の時代に船でマルセイユからフランスの第一歩をしるした永井荷風は、そこから列車に乗って
パリ.リヨン駅に着いた。そう、今ではオレンジ色の車体のTGVの終着駅としてにぎわっている。
荷風の時代は貴族の社交場といった賑わいを見せていた。リヨン駅に限らず、古いヨーロッパの駅には
ミラノ、ベルギーのアントワープなど立派な駅が多い。そんな中リヨン駅で最も往年の優雅さが
残っているのが、駅構内にあるレストラン ”Le Train Bleu”といわれている。ちょっとした舞踏会が行われてもおかしくはないウラジオの駅にも、待合ホールにふさわしい
レストランがあった。中をちょっと覗いて見た。これまた豪華そうではあったが予想通り、従業員の
ほうが客より多かった。当たり前ではあるが、メニューを見ても異様なほどに高くそこだけは
完全に別世界であった。ボルシチはあったが、ビールはすべて西洋のメーカだった。
別世界と言うのは時間をかけて列車の旅を楽しむといったスタイルでなく、今や時間はかかっても
料金的なことから生活の足として利用されている庶民の駅の中に100年前の貴族社会の雰囲気が、
異様に浮いていた。待合室でのディナーショーも終わってしばらくするとようやく、私の乗る予定のノボシビルスク行き
に関するアナウンスが告げられた。さあ、いよいよだと多少の緊張感を持って切符にある9号車の
29番乗り込んだ。二等寝台は4人用のコンパートメントで、扉を開けてみるとかなり狭いように思えたが、
それも旅が進むにつれてだんだん広く感じたからおもしろい。私のベッドは下段だった。
その隣のもうひとつの下段ではすでにロシア人の男が着替えをはじめていた。列車番号7号としかないシベリアの大都会ノボシビルスク行きは、24:00の定刻にウラジオストク
を後にした。その時からモスクワで0になるキロポストが着々と減りつづけていった。シベリア鉄道に乗る事を友人らに伝えるとまず聞かれるのは、モスクワまで1週間も列車に
乗りっぱなしで退屈しないかということだった。シベリアの街を歩いてみたいこともありイルクツークで2泊することにしたから、3日と4日
の旅になりそれほど退屈じゃないだろうと言って出て来たものの、実際はこれまで体験したことのない
時間は想像もつかなかった。そして、実際一人で乗ってみると車内で出会う人、特に同室になる者との
相性がかなり大きな要因であると感じた。実際、最初の目的地イルクツークの手前で乗ってきた
ロシアのマザコン親子が同じコンパートメントにやって来たときは非常につまらなく、
あと数時間がとても長かった。
☆
2日目の朝、大きな駅に列車が到着した。
駅名を確かめ、ハバロフスクと分かった時は、モスクワまでの鉄道路線図のその長さから、
ほんの少し進んだだけで、一体いつになると着くのだろうと早くも先を思いやられてしまった。
そんな時隣のベッドの男とメモ帳とペンで言葉を(紙を)交わした。
名前はアナトリーで通称トラ。寅さんと同じで私も後者のほうが親しみを感じた。
仕事でウラジオに来ていた彼の目的地は子供二人と、奥さんの待つ終点のノボシビルスク。
ほぼアジアの終点にもちかい。ソ連時代に兵役でドイツに駐在したことのある寅さんはドイツを話せ、
ローマ字を書けるのでキリル文字を読解することから始まる筆談にならず割とテンポの早い、
筆談を交わすことが出来た。40を少し超えた寅さんは、髪がかなり後退していて、丸顔に鼻の下の髭は、
レストランのシェフと言った貫禄があり、性格も寅という名前負けすることなく、9号車の中で
一番元気なオヤジだった。シベリア鉄道の旅にも慣れているようで、車掌からチェス板を借りて
きたりと最初の懸念は取り除かれた。後一人、熊のような老人が途中から乗って来たが、ビールを飲む異様な速さ、手の震え具合から
見るとアル中だろうか。一日の大半を通路に立って外を一人で見つめていた。
この私を入れた3人を中心に旅は西へと進んだ。旅も進んでいくうちにシベリア鉄道の旅も悪くない事が分かった。
まず、車内が大変清潔であること。金髪、青い目、白い肌とロシアのイメージにぴったりの車掌、
マリーナちゃんが毎日掃除機で通路、コンパートメント、トイレなどをきれいに掃除してくれていた。
特にトイレはシャワーの付いていないシベリア鉄道にあっては、用を済ます場所のみならず朝晩の
歯磨き、髭剃り、体を拭いたりと生活に占めるウエイトも決して少なくなかったからだ。
特に掃除の後は狙いめで、まだ洗剤の泡も残っているトイレには、トイレットペーパーも補充されている。いつでも熱いお湯が手に入るということも嬉しい。非常に狭い車掌室のすぐそばにある大きな給湯器の
お湯はとてつもなく熱く、私の持っていた水筒は熱くてタオルなしでは持てないほどだった。
超携帯の水筒で蓋がコップになっていなく、水筒に直接ティーパックを漬して紅茶を飲んでいると、
寅さんがチャイグラスをマリーナちゃんから借りてきてくれた。寅さんは私に正しいチャイの飲み方を
教えたかったのかな。厚めのグラスを金属の取ってつきの受けに差し込んで飲んでみると、
同じ紅茶でもよりおいしく感じた。窓の外は完全装備をしなければならない2月のシベリアであるが、車内の石炭暖房により快適だが、
特に太陽の出ている午後は逆に暑くコンパートメント内がサウナ状態にもなってしまう。
Tシャツ一枚でも汗が出てくるほどだ。しかし、駅に着いて15分ほどの停車時間があると、乗客らは
靴下を履き、服を着、体を包み込んだ武装状態でホームに降りていく。それほど中と外の温度差が違う
のである。ここでシベリア鉄道の車内は寒くてたまらないという話もデマであるの証明になる。
暖房も石炭なんて、なぜ文明の発達した今でさえ、電気や最新のハイテクじゃないのかと思われるかも
しれないが、それは世界一過酷な冬のシベリアはハイテクも受け付けないほどなのだ。
もし、厳寒のシベリアで何かの原因で暖房が止まってしまえば、待っているのは凍死と言う恐ろしい結末。
石炭であれば、機械系統の故障に関係なく使えるからこれほど最適なものはない。
それ故、シベリアは世界でも最も石炭が重宝される場所の一つである。私は一度、車内の熱さに絶えられなくなり、晴れていたこともありTシャツ姿で、ダウンジャケットを
一応は片手に持って列車を降りた。そのまま広軌のレールに寝そべりせっかくだからと記念写真を頼んだ
ところ、寅さんが飛んできて「おい、そんなばかなまねはやめろ。はやく上に羽織れ。」
と周りにいた人同様に驚いた表情をしていた。とはいえ、かなり体温が暖められていた私にとっては、
寒くなかったが、そこはやはりシベリア、もっても1分くらいだろうか。シベリア鉄道に乗ってみて一番困ったことは、何かと聞かれる私は「時間の概念」と答える。
列車はすべてモスクワ時間で運行されている。7号の発車時間はウラジオの時間で24:00、モスクワ時間
だと17:00とその差7時間もある。だれもモスクワ時間に合わせて朝の7時だから眠るとかはしない。
時差も毎日1時間ずつ遅らせばいいだけだ。困惑したのは人によって時計の針が違うと言うこと。ある人は、ウラジオ時間(日本プラス1時間)、
私は一日ごとに針を進めた、寅さんはすでにノボシビルスク時間(日本マイナス2時間)で生活をしている
から他人に時間を聞くほど無駄なことはなかった。いくら寅さんと話やゲームをしたり、外の風景を眺めていても、読書をしても飽きが出てくる。
そんな中、停車時間が15から20分あるときにホームに下りて買出しをするのが最高の楽しみであった。
ロシアの大衆食の王様ピロシキを筆頭に、ロシア風水餃子ペルミニ、ハッシュドポテトなどは、
どれも自家製で買うところによって味も値段も微妙に違ったりするから、毎食ピロシキを買って食べて
も飽きることはなかった。さらにイルクツークに近づくとバイカル湖でとれた魚の燻製なんかもあって、
多少塩辛いがなかなかいけた。そして、何よりも嬉しかったのは暖かい状態で食べるものは、すべて
暖かい状態で売られていることだった。逆に売り手のおばちゃんたちが、持参した小さな台の上に並べられたビールは、外気にさらされ
よく冷えていた。私はその中でもБАЛТИКА(バルティカ)というサンクトペテルスブルグの
ビールを好んで飲んだ。ビールもさすがはロシア、コーラのファミリーサイズボトルのように1,5リットル
入りのプラスチック容器入りのものが売られていた。最初はこれを飲むと水ぶくれしそうであったが、
乾燥している車内では水代わりにスイスイと喉を通っていった。しかし、その横でアル注ぽいじっちゃんは、
コーラでもあれだけぐいぐいとやらんぞとばかりにあっという間に飲み干してしもうた。
体験記などにはウオッカをあおるアル中が、他の乗客に迷惑を掛けると、記載されていていたが、
そんな心配は不要だった。なぜなら、9号車では飲んでもビールと健全的だった。
唯一2日目にいかにもアル注と言った若者の姿を見たが、特に暴れたという訳でもないが、途中の駅で
乗り込んできた警官らによって列車から引きずり降ろされていった。ロシアも変わってきたのであろうか。
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