Turkey1


 1999年8月17日早朝、イスタンブールの東90キロにあるイズミックにて大地震が発生。
時間を追うごとに死者の数はどんどん増えてゆき出発の前日にはすでに3000人を超えていた。
果たしてイスタンブールはどうであろうか。もしもの場合として、水とローソクなどをもってシルクロード横断の
始まりとなるアジアの終点を目指して旅立った。

 はっきり言って心配だった。それは街の治安とか水などの問題ではない。通信の問題だった。私たちは
中央アジアのビザを取るためだったのだ。だから、地震の影響で観光地が閉鎖されていてもいっこうに構わない
のであった。電話やファックスやテレックスなどの通信機能、そして領事館が地震の影響もなくちゃんと働いて
いれば後はどうでもよかった。

が、実際行ってみると街の機能は正常で、かなり奉し抜けした問いのが正直な感想だった。

 イスタンブール→バックパッカー→ブルーモスクの裏の安宿街と言った公式が,、成り立つほど日本人や
欧米人旅行者の大半がその地区に固まっている。その中でも世界中のバックパッカーが集まるところ、
日本人の溜まりばになるところと細かく分けられる。私たちは生のシルクロードの情報集めに日本人宿を目指したが、
どこも満室のため前者の宿に取り合えず腰を下ろした。

 私たちというのは、アイルランドのギネスビールが大好きな点で気が合い、中国までの旅を共にすることになった
マサのことである。ギネス意外にもウィスキーを始めうまい酒を求めて歩くと言ったなかなかのこだわりもの。
中でも目立った一番の見える拘りはハードロックが好きで3年間もかけて伸ばした自慢の長髪だ。
(実は私もハードロックが好きだ。)イスタンブール滞在中に「どのような関係で一緒に旅行しているんですか」と
聞かれるほど全く異なったタイプだが、酒や音楽という小さいながらも奥深い共通点で妙にうまく行っていた。

 旅の初日というのはどうも気合いが入ってしまう。金銭的にも一番懐が温かいにもかかわらず、元金が減らないのを
美徳といわく同もケチ
になるのだ。その日も過去の例に漏れなかった。空港から一緒に宿探しをした、日本在住のエジプト人、
アミンに夕食を誘われ外に出たもののどうもロカンタ(大衆食堂)の料金を見ると尻込みしてしまう。
スープとメインを取ると100万リラ、約2ドル50セント(
1ドル=440.000トルコリラ)となると、どうも100万という大きな
単位に惑わされフランス料理屋で食事をするみたいだ。



   シャッシングした1億リラ(約26000円)

途中にあったキオスクのウィンドウにあったいったい何日前のものかわからないハンバーガーやホットドックの20万や
25万の前でどうしてもめが止まる。アミンが、別に俺は何でもいいよと言いながらも、なんでこんなところでなんだよ、
ロカンタに行こうぜと持って行くので再びその一件に戻った。

もう一度外に掲げてあるメニューと料金表を眺めているとアミンが何かぶつぶつと計算し始めたと思うと、
「ここは私がごちそうするから、な、入ろうよ。」と来た。このままではトルコ初日の夕食がキヨスクのサンドイッチに
なりそうと感じたのか、今度は私らを説得に廻ってきた。私らは一瞬考えた後ロカンタで食事をすることにした。

 私は羊のミンチ肉にスパイスを眩し串に刺して炭火で焼いたカバーブガ大好きなのだ。
ヨルダンに行った時も最初の3日間は、これでもかという程食べ妻を呆れさせていた。私は自信をもってシシカバーブを
3人前注文したが…出てきたのは串に刺して炭火で焼かれていたものの一口ステーキのような肉だった。
間違って運ばれてきたのかと思い確認してみたが、返ってくる答えは予想に反してシシカバブである。

 知ったかぶりは当たれば様になることもあるが外れればこの上なく恥ずかしい。しかも頼んだものが最低のもので
あったら大変であったが、そのシシカバブは炭火のおかげで大変おいしかった。そうなると、なかなか私の選択も
すばらしいと思いさっきの恥ずかしい気持ちなどすっかり忘れていた。

 それからというもの、私はウィンドウに銀色のトレーに料理が並べられているところで食事をするようにし、
メニューの新規開拓に励んだ。

 イスタンブールを離れてから感じたことだが、そこにいたときはロカンタ選びが簡単だったこと。
料理がウィンドウに並んでいたから、食べたいものがあるかで店を選べばよかったし、何か知らないものがあっても、
おいしそうであれば試してみることによって新規料理を開拓できた。ところが、エルズルムからは観光地でないせいか
料理の実物がウィンドウに並んでいないせいか、何があるか、また、何が食べられるかを調理場に入って確かめる
必要があった。それを考えると面倒だったが、いろんな厨房を覗けたのは興味深かった。


                                 ☆

ドミトリーで一人5ドル80セント。高い。朝食が付いているとは言えパン一個にバターとジャム、コーヒー、
紅茶のお代わり不可というところも気に入らず、初日にバルコニーから見えた日本人がたむろしていた宿に
変わろうとしたが、その日は一つのベッドも空かないとのことだ。

 今日は金曜日。明日明後日と領事館は休みだからヴィザ取りに関して出来るだけのことをしておきたかった。
まずは日本領事館に行ってレターと呼ばれる紹介状の様なものを書いてもらわなければならない。
丘の上にあるスルタンアハメッド地区をぐっと降り、オリエント急行の終着点になっている駅のある港を通って、
旧市街と新市街とを結ぶガラタ橋を渡ると急な上りになっていた。これは車で行って正解だった。
その上り切ったところにある大きな広場が新市街の中心地タクシム広場だ。日本領事館はそこから歩いて数分の
ところにあった。用を済ませこれまた広場のすぐ近くにあるキルギス領事館で、中央アジア最初のヴィザ
申請を行った。最初にこの国から攻めたのも
C.I.S.の中でも一番簡単ということであったからだ。
その分火曜日受け取りと日数はかかったが。かといって至急発給に倍の100ドルを出す気にもなれなかった。

 時間が出来てしまいとくにすることもなかったので坂を下り駅まで歩いたがやはり結構きつかった。
スルタンアハメッドの宿へは再び坂を登らないといけないので、休憩がてら駅前で宿を捜した。
外国人観光客がほとんど来ないせいかトルコ語しか通じなかったが、一人150万リラ(約
3.4ドル)でしかも
ツインであった。ベッドは柔らかく湿っぽかったが物価の高いイスタンブールでは安かったので急遽引越しすることにした。
特に観光に来ているわけではなかったので、新市街や駅に近いこの場所が便利だった。
それに、スルタンアハメッドまで坂を登る必要もない。

 安さを追求したため宿ではダニに悩まされ、ベッドが恐ろしいほどにへこむ、シャワーを浴びるのに思いっき
り階段を上がらなければならなかった、やたらとけち臭い親父だったりでそれから宿を二度替えた。
そして最後のは、バックパッカー宿でドミトリーでも5ドルぐらいしたが屋上のサロン、チャイがただでのみ放題、
自炊も可能だったのですごく快適だった。




            ............. ..........

                              

inserted by FC2 system