Belarus 01


 ベラルーシ、白ロシア。あまりピンと来ないと思うが、91年までソビエト連邦構成国の一つであった。
こちらはバルト三国とは異なり、親ロシアである、そのせいか街並みもなんとなくソ連ぽかった。

日本語で白ロシアといっても、白は西を意味し、またロシアはロシアでなくルーシという、昔の地域名
であると言われている。その首都ミンスクもマイナーな響きだが、商業都市として栄えたためか、
交換、取引が街の語源となっている。そして、仙台と姉妹都市の提携をしていることを忘れてはならない。

 ミンスクは第二次大戦で徹底的に破壊されたため、共産主義時代に建てられた灰色のコンクリートの
建物が目立ち、私の第一印象は暗いものであった。ラトビアの首都ビリニュスより列車でわずかの
距離だが、その可愛らしい街と雰囲気は全く異なっていた。

 駅を出るとまだスターリン様式といった重たい、共産国家時代の面影が強く残るし、隣のバスターミナルの
前にはドルを恵んで欲しいと、おばちゃんたちがタムロしているなど、資本主義国家への移行が停滞
しているような印象があった。

 トラムの走るウリヤーノフ通り、レーニン通りを通って、メインストリートであるスカリーニ通りまでは、
建物のせいか、雰囲気が非常に重苦しく感じた。そしてこのスカリーニ通りのド真ん中をマックが
陣取っていて、ここでもアメリカ文化が一つの新しい文化になっていることを感じた。立派な建物だったので、
ハンバーガーを食べながら街の景色をしばらくボーっと眺めていた。

通りには商店もつまって並んでいるのではなく、一つの一つの建物も大きいので歩いていていると距離を
感じるので、少し退屈な感じもした。だだっ広い通りに、灰色の大きな建物これを色を塗り替えるなどしたらかなり
街の雰囲気が変わると思うのだが…

 たまたま通りかかった大祖国戦争史博物館(第二次大戦の独ソ戦)に入ってみた。色々武器が
飾られていてマニアにはいいかもしれないが、私には少し退屈だった。だが、ナチスに抵抗しようと
する人を処刑するパネルは、目を隠したくなったがいかに彼らが残虐な行為を行ったかを改めて
知るところとなった。

 戦争について考えながらゆっくりと博物館をまわりたかったが、地元の学生風の男に話しかけれて、
私がロシア語が分からないと言っても、僕が説明するからとしつこかったので、一通りざっと見て出てしまった。

 外は今にも寒いにもかかわらずオープンテラスで、ビールやジュースを飲んでいる人がいて、さすが
北国の人は鍛えられているなと、なぜか関心をしてしまった。



 ミンスクは灰色のコンクリートの重たいだけの街かというとそうでもない。トラユツカヤという地区には、
学生達が中心になってワルシャワのように戦後見事に旧市街を復元した地区もある。建物の色も
黄色やピンクとカラフルで、そこだけはまるでメルヘンチックな別世界だった。5分も歩き回れば、
一通り見られる狭い範囲だが、コンクリートに疲れた私はそこで絵葉書を書いたりと、しばらく時間を
つぶした。

 まだこの街を表面的にしか眺めていないことに気づいた私は、再びメインストリートに戻り、街で
一番のグムデパートに入ってみた。商品の数こそは多かったが、洋服のセンスはダサくこの国の
発展がまだまだ進んでいないことを実感した。しかし、人は素朴で親切であり、今後頑張って欲しい
国の一つである。

 夕食にはウズベキスタンでよく食べたピラフ屋を見つけ、懐かしさを感じながら、これから乗る
キエフ行きの夜行に備えて、腹ごしらえをした。

 何年か先にまたこの国に戻って、どのように変わっているかを確かめて見たいといった思いを
抱きながら、私は駅のホームへと雪降る中向かった。

                           ☆ ウクライナ


 ウクライナの首都キエフ行き列車の寝台コンパートメントには一人地元のおじさんがいたが、
国境を前に降りてしまい私は一人になっていた。ある意味ゆっくりと出来ていいのだが、
ロシアを出国した時のように、旧ソ連ではいつ何の言いがかりをつけられるか分からないので、
地元の人がいると心強い。

 案の定、国境の係員は達が悪く私のパスポートにはんこを押そうとはしない。しかも深夜の
3時位だったと思うので、眠りから起こされた私は頭が働かないし、イライラしていた。そんなこともあり、
ここでは早く寝たかったので、賄賂をせがむ彼を5ドルまでに負けさせて、再び眠りについた。
そんなこともあり、キエフについてから青い軍服のような制服を着た警察を見ると、異様にムカつき
日記を書くことさえも忘れ、結局は真っ赤に塗られた大学、観光客で賑わっていた旧市街を
歩いた以外にはあまり印象が残っていない。ただ、メインストリートは広く綺麗で夜は何度となく
通りを往復していて、ここはデートにもいいなと思った。



 そもそも私がウクライナを訪れたのは、アルバニアに行くための通過と本場のボルシチを食べる
ことであった。地図を片手にお目当てのお店に向かったが、結構歩いたところにあった。
さすがそのためだけに訪れた街だけあり、美味しさも半端じゃなかった。そして、ガーリックオイルが
たっぷりとかかった山型パンと一緒に食べるのが本場の作法であることも知った。またビールが
非常に美味しかったのも印象的で、今回の旅の食事でもイルクツークのレストランの次に、
正解と感じるところであった。

 ウクライナを訪れる方はぜひボルシチをお試しあれ。ちなみに現地語表記ではこうなります。
борщ(ボルシチ)

 

 モスクワからビルニュス、ミンスクからキエフはいずれも夜行列車の寝台車を利用したが、
いづれも一晩と短かった。今日は昼から二晩かけてブルガリアのソフィア行きの列車に移動する。

 出発前の雪降る売店で3日分の食料を買い込み列車に乗った。今度は私と同じソフィアまで
行き、乗り換え家に戻るという、ブルガリア人が同じコンパートメントで、しかも英語を解するので、
退屈な旅にならずに済みそうだった。そして話し好きな彼でよかった。途中同じ車両に乗り合わせた、
出稼ぎ娼婦4人組を誘って酒盛りを開いてくれたりと、社交的な人であった。

 ウオッカを大量に飲んでしまい、最後の方には眠ってしまい、目覚めると車掌が私に話しかけ、
持ち物を取られていないか、大丈夫かとしきりに聞いてきた。例の彼になぜと聞くと、娼婦達と
飲んでいたから心配していたとのこと。いくら娼婦と言ったって、商売していない彼女達は普通の
女性より控えめで、気が付くと感じたのだが、職業の付きまとうイメージにより可哀相に思えた。

 ウクライナの国境警備兵はやはり最悪だった。
今度は出国だから簡単だと思っていたら、私のパスポートを見るなり、係員が消え、しばらくして
戻ってきたと思うと、列車を降りて詰め所に来いという。押し問答の結果、まだみんなのパスポートに
はんこを押しているところだし、全員の分に押し終えるまでは列車は出発しないこと、そして
例の彼の説得もあり、私は詰め所に向かった。

 国境警備兵と言えどもみんな英語が使えず、どうしようと思っていたら、チーフらしい顔つきの
引き締まった兵士が現れ、下手ながらも英語が使えた。聞くとつい最近、この国境から日本の
偽パスポートを使って、ブルガリアに行ったアジア人が複数いたという。おそらく今度こんなことが
あると、彼の首が飛ぶことを恐れているのか、すごくナーバスになっているのが分かった。
 
 私もなかなか釈放してもらえずイラついていたが、ここは冷静に行かないとこの勝負に勝てないと
にらみ、いかに私が信頼できる人間かを印象づけた。その結果ようやく出国スタンプをもらい、開放して
もらったがすでに列車が国境駅に着いてから2時間以上も経過して、予定の停車時間を大幅に
越えていた。

 軍用車で列車まで送ってもらっていると、いつまで経っても出発許可が出ず、イラついていた
運転士はいきなり列車を発車させてしまった。それを見た憲兵はスピードを上げると共に、乗客たちの
返却すべきパスポートの束を振り、止まれの合図を必死にしていた。

 私は荷物を持って降りていたから、列車に乗れなかったら詰め所に泊めてもらおうかなとも、
一瞬考えが横切ったが、列車はすぐに止まり、再びソフィアに向けて走り出した。

 同室の彼に家族と住んでいる家は、薔薇の産地で綺麗だから是非寄ってくれと言われたが、
ブルガリアは以前に訪れたこともあり、このままでは旅が停滞しそうだったので、そのまますぐに
マケドニアへと向かった。



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