Ghana 05
最後は子供達みんなと写真を撮って今夜の宿を探しにそこを立ち去った。

エルミナには安宿がないといった情報を事前に仕入れていたが、
実際そうで、ポルトガルやギリシャ並みの水準だった。
バックパックの旅をしているとどうしても、街一番の安宿にこだわってしまいよくない。

ジンバブエでマラリアのクスリと過労で入院して以来、
たまには超豪華なホテルにも泊まるといった、極端な路線をとっているが、
今回はに関してはこの屋がもっとも豪華なものになりそうだ。
とっても綺麗なペンションだが。
部屋もタコラディのときの倍の広さで、久々に宿と呼べるもので、悪くもなかった。

そしてここでは初めて地元の人ではなく、同じ旅行者と話をする機会に恵まれた。
しかも最初で最後の日本人。
夜はお酒を飲んだりして色々と情報交換をしたりした。

                                ☆

エルミナとケープコーストは10kmくらいの距離で、ココナツの木々が生い茂り、
海とマッチしてこれぞトロピカルといった素晴らしい光景が広がっていた。

この区間は単に移動でなく、景色を楽しむべきだと私は思った。
だが同時に、この海岸は人が物以下の扱いを受け、新大陸などに売られて、
船で運ばれていった悲しい歴史のあるところだということも思い出した。

17世紀につくられた城は大きかった。
200年にわたってイギリス人の西アフリカの侵略拠点として使用された歴史がある。
元々はスウエーデンのものだったが、デンマークに奪われ
最後にはイギリスの手に渡ったいきさつがある。
早速現在では奴隷博物館となっているこの城の扉を開け、中に入って行った。



最初にビデオ室がありそこではドキュメンタリーが、上映されていた。
収容人数20名くらいのその部屋には、
すでに5名のアフリカの観光客が熱心にそれを見入っていた。
一体彼らはどう感じ、どう奴隷の歴史を見ていたのであろうか。

30分にわたって上映された記録映画は興味深いもので、ある部族の日常生活から
リンカーンによる奴隷解放宣言に渡り、アメリカのキング牧師、ガーナ独立から
今日における国家のリーダー紹介などであったが、正直あまり覚えていない。

展示室は先史時代の歴史より始まり、
少し暗い部屋に進むとメインの奴隷関係の部屋があった。

そこには実際に奴隷の手足を繋いでいた鎖が陳列されていて痛々しいものがあった。
その横には奴隷の船内での配置図といった絵がかかってあった。
船の形に合わせてこれでもかと木材を詰めるように奴隷をぎっしりと詰め、
一日にパンをひとカケラ、コップ一杯のみを与えられ、と家畜よりも最低の条件のため、
最低でも1割は運搬途中に命を落とすといった過酷な旅であることが、それからうかがえた。
尚、この絵は世界史の教科書にも出てくるので知っている人もいるかもしれない。

次に目に入ったものは、無事にアメリカに渡ることが出来た彼らの販売広告であった。
ジョン31歳、真面目で性格良し、体格よく肉体労働向き。
ナンシー21歳、真面目で、性格良し、働き者、家庭内労働向き。
そしてそれぞれに料金が掲載されていた。

本当にこんなことがあったことは歴史上は分かっていても実際に見ると、
広島の原爆博物館を訪れたときのような胸の痛みを感じた。

この重苦しく暗い部屋を出ると、次の部屋でいかに過去の暗い歴史であるかが強調されていた。
最後にはガーナ出身で現在アメリカなどで活やくしている人のパネル写真が掲示されてあり、
このとき初めて歌手のスティービー=ワンダーもこの国出身ということを知った。


全てを見終えると、建物の外に出て、4つある洞窟を訪れた。
ここは奴隷収容場所で、出荷されるまでの間性別に分かれて詰め込まれていた空間だった。
中の感じは正直広く、涼しげなであったが、実際は限界を超えた収容人数で暑さ、
臭さ共に想像を絶するものであったことが、容易に想像つく。

今日は久々にいい勉強になった。
そう思いながら、私は本場のガーナチョコを求めて、首都アクラを目指した。

アクラは背の低い建物が多いといっても、100万都市だけあってこれまでとは違い、
異様な程に大きく、タクシーのお世話になることもしばしばだった。
とても私にはバスなんて乗りこなせる自身もなかったので。
乗車前に地元の人に相場を聞いておけば、運ちゃんとも事前に料金を交渉するときに有利である。

目的の宿もおかげで簡単に見つかり、今日の予定を立てるべくホテル内のカフェで
ビールを飲みはじめた。

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