Iran3

リゾート地化されていないカスピ海を見たかったのでバンダレ=トゥルクメニスタンにやって来たが
、あまりにもマイナーなところを選んだせいか、街には宿はないというではないか。今夜はどこかで野宿だなと
考えていた矢先、タクシーの運ちゃんがビーチのそばにキャンプ場があることを教えてくれた。
見るからに何んにもなさそうな街の中心部らしいところを通り、みずぼらしい界隈を走ることしばらくして道の
行き止まりに止まった。キャンプ場の入口であった。ひとり2500リヤル(約30セント)を払い、バンガローのある中を
進みそのうちの一つを当てかわれた。カスピ海からの風があったので、テントでなく良かったと思ったのもつかの間で、
見るとすごかった。

 四角いバンガローは天井こそはあったものの、入口から見て側面二方はテントのシートのよう物で覆われていたが、
入口は扉無しの吹き抜けで、奥もしゃがめば外からは隠れる程度であった。てなわけで、中で車座になってゆっくりと
休んでいても、外からは丸見えであるわけだから、好奇心旺盛なイラン人は我々を見逃すわけはなかった。



 一人また一人とやって来るのだが、話をするにも英語をまともに話せる奴がいなく(我々も大した事はないが、
もっとひどかった)かなり会話がきつかった。それは我々だけで、彼らには一向に構わなかったようである。
我々のガイドブックの、ペルシャ語の部分を眺めたり読んだり、ただ珍しそうに我々を眺めたりしているだけで
十分に楽しんでいるのだった。

 そのうち腹が減った。考えて見れば当たり前だ。バスの休憩時にハンバーグのサンドウィッチとイスラミックビアーを
口に入れただけだった。イスラミミックビアーとは酒が禁じられているイランで唯一のめるノンアルコールビールのことで、
アルコールの代用品であるが、これまたまずかった。

 食事をするにもキャンプ場内に売店があるのみだったので、我々は持っていた缶詰で夕食を取ることにした。
そして、その旨をあっ詰まっている10人ぐらいの連中に告げると、「じゃあ、またな。」と一人また一人と去って行ったが、
そのうちの一人気持ち英語の出来るオヤジが「さっきここに居た、俺の弟がぜひあんた達をうちに招待したいと
言っている。彼らはこのキャンプ場を夜の1時に子供たちと引き払うから、一緒に行ってくれ。」としきりに我々に言う。

 あのな、夜の一時なんてわれわれは疲れているんだし、そんな直接話したこともない奴のうちにひょこひょこ
付いてゆくわけはないだろうが。トゥルクメニスタンに入る時間も考えると余裕もなかった。
「とにかく腹が減っているんだから、ゆっくり食事をさせてくれよ。」と時々缶詰に目をやったがオヤジはそんなことに
お構いなく説得モードの奥深くに入って行くので、缶詰を食べはじめたが全く変化がない。
食事も終わりしばらくしてから、そのうち彼も疲れたのか、「じゃあ、とにかく明日電話してくれ。」とやっと出ていった。

 やっと一息つけるなと、くつろぎ始めた矢先、さっき居たここで働いているという青年がやって来た。
深夜になってもう疲れてたまらなくなった時まで、見世物小屋の中に居る我々目当ての訪問者は堪えることはなかった。

 夜空が雲に覆われて海からの風も強くなって来た。いざ寝てみると二方からの風も気になったが、床の下からくる
隙間風が結構体にシミた。なんせ、いいかげんな壁の造りもさる事ながら、木の屑の寄せ集めを使って造ったような床は、
高さが違ったり、大きな隙間があったりで結構腰が痛かった。最初に親切で貸してくれた、汚く湿った毛布のおかげで
風邪を引くのだけは免れたのであった。


                                   

 土手に登りその上に沿って歩き始めると左手には牧場のようで、しかもラクダが草を食べているといった
めずらしい風景があった。何とも不思議ではあったが、私が最初に牧場と書いたようにパット見た感じでは
オランダにいるような感じであった。

 長い桟橋を歩いていると海の橋があったが、波がない草が生えていることから、どう見てもカスピ湖の
イメージだった。それに、我々の見たカスピ海は汚かった。(他の有名なカスピ海沿いの街を訪れた旅行者も
同じ事を言っていた。)海や湖というよりも、泥色をした水は大河のようであった。が、我々にはそんなことは
どうでもよかった。ここまで来たのは、湖のくせカスピ海と呼ばれているには水は塩辛いのかという私の長年の
疑問を解決するためであったのだ。

 ちょっとなめるには、勇気のいる汚さであったが、試さないことにはここまで来た意味がない。
少し大袈裟に気合いなんかを入れてなめてみると海水よりはうす味だが、ちゃんと塩の味がした。
最後に海水をなめたのが、死海という湖だったから、そのとてつもなく濃い味に鳴れてうす味に感じたのかと
思ったがそうでもなかった。

 目的を達成してしばらく遠方を眺めていたら、我々の来た桟橋とは別にもう一つあった。それはやはりイランらしく、
女性用であった。夫婦であっても男女の泳ぐ場所が別なのだと、そこまで一緒に行ったイラン人が教えてくれた。
何とも厳しい。見るところ200メートルもないだろうか。二人で中間地点まで泳いで行けばいいのではないのとか、
たとえ遠目に見えても肌を徹底的に隠すイランでは、唯一髪の毛や肌を見られる絶好の機会であるから最高の
場所かなどかと、異教徒の私は単純に考えていたが、そんな問題ではないのであろう。



 昨夜と今日の目覚めのお茶を提供してくれた青年が、バンダレ=トゥルキャマーンの街を案内させてくれと
言っていたが時間をいくら過ぎてもくる気配はなかった。そして、我々はトゥルクメニスタンへ向かう拠点となる
大きな街かつ宗教上の聖地であるマシュハドに旅立った。

 マサの両替もあり街に寄った。それこそ出来なかったが、そこの女性は他のイランのような黒ずくめではなく
花柄の衣装やスカーフと明るい色彩だった。そうここは名前からも察するようにトゥルクメニスタン人の街だったのである。
道理で雰囲気が違っていたわけだ。

地図を見ているとトゥルクメニスタンの首都アシュガバッドに行くのに国の東の端にあるマシュハドまで行って
戻って来るのは大変そうだったので、途中から北の国境まで北上する道のある分疑点まで行くことにした。

 どちらに行くにもまず幹線沿いにあるゴルガーンに寄った。ここでマサが両替をするためだった。

 地元の人間にも手伝ってもらい宝石やなどもまわったがどこも両替する気はない。その時に現れたイラン人日本語使いが、
「俺が知っている店があるけれど今は昼休みだし、今から人と食事の約束がある。」彼の家に行くか、
待ち合わせをするかであった。待ち合わせは何時間待たされても来ないこともあるので、とりあえず彼の家によることにした。

 バブルの頃日本の工事現場で出稼ぎをしていただけあって、立派な家に住んでいた。玄関を入ると、大広間のような
居間が待ち構えていた。家具も少なくなおさら広く思えた。そんな広い空間に我々二人を残して、忙しそうに消えたかと
思うと食事を持って来た。チキンにご飯とサラダで、これまたおいしかった。イランの家庭料理はすごいなと感心していたら、
そのイラン人にこれはさっき買ったものだと答えが返って来て少しがっかりしたが、おいしい料理に出会えて嬉しいことに
変わりはなかった。そしてそこには酒があると言っていたが、禁酒のイランに慣れてしまっていたせいか欲しくはなかった。




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